鐘ヶ淵中学校校歌


桜花咲<鐘淵
幾春集い打ち連れて
我が学舎に光あり
清く明るくつゝましく
いたづきまちて絶(たゆ)みなく
真理の扉 開かばや
開かばや

KOUKI鴎飛び交う隅田川
流れの岸に跡とめて
見よ名所の誇りあり
清くさやけく逞(たく)ましく
責をし負いて潔ぎよく
正義のともし 翳(かざ)さばや
(かざ)さばや

AYASE
『鐘が沈んで鐘ヶ淵』

墨田区と足立区の境にある綾瀬橋の下を流れる川は旧綾瀬川で、荒川(旧荒川放水路)と隅田川をつなぐ形のこの川の全長は450mしかない。

本来は綾瀬川の本流だったが、荒川放水路の開削によって分断されてしまったために「旧」と呼ばれるようになった。

安藤広重の『名所江戸百景』の中に「綾瀬川鐘か淵」がある。隅田川から綾瀬川の川口を遠望する風景で、綾瀬橋と思われる木造の橋も描かれている。いかだも浮かんでいて今は昔の、のどかな川面の景色である。

「鐘か淵」というのは今も墨堤通り沿いにある墨田区立鐘淵中学や、東武線の鐘ヶ淵駅などに名を残している。いずれも「かねがふち」と読み、隅田川と綾瀬川が合流するあたりの呼び名である。


『江戸名所図会』には、「鐘が潭(ふち)」とあって「隅田川・荒川・綾瀬川の三俣の所をさして名づく」と説明している。

ここにいう荒川というのは今の荒川・荒川放水路のことではなく、綾瀬川との合流点より上流の隅田川を指す。つまり、「隅田河・荒川」は一本の川なのである。「かねがふち」の由来は、亀戸の普門院が隅田川の西岸から現在地に移転するとき、誤って鐘をこのあたりの川中に落としたためといわれている。寺名については違う名前を挙げる説があるが、いずれにしろ鐘が沈んだとするのが一般的である。

ところが、幸田露伴は『水の東京』で次のように書いている。

「予の考えをもてすれば鐘が淵は曲尺(かね)が淵にて、川の形曲尺(まがりがね)の如く曲折することによりて呼びたる名なりと判ず」

地図を見ると、千住大橋から東流している隅田川はこのあたりで急に南下し、大きく曲がる形となっている。文豪の科学的な解釈である。

「江戸東京物語」下町編(新潮社編)より

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