【2008年1月1日】

全国的に冬型の気圧配置となったなか、東京は好天気に恵まれた。今年の初詣は近くにということで 、目黒不動尊を中心に付近を散策することとした。 東急目黒線・不動駅前下車、目黒不動を目指す。明治神宮や浅草・浅草寺のような混雑ではないが、さすが東京、 そこそこの賑わいである。

池上・本門寺と比べると若干少なめか。すれ違う人たちは手に手に「破魔矢」など初詣帰りの気配だ。 「目黒不動尊」のほか「五百羅漢寺」には是非寄りたいの思いで足を速めた。

順路は、成就院→安養院→目黒不動尊→海福寺 →五百羅漢寺→蟠竜寺→大鳥神社とした。


【成就院】「ありがたや 福をすいよせる たこ薬師」

成就院、たこ薬師は目黒不動門前の商店街中程にひっそりとあります。地元宮大工による山門をくぐると、目の前に本堂そして側面にお静地蔵が並び、その上に蛸の絵がかかっています。 ではなぜ、たこ薬師と呼ばれるのでしょう。 開山の由来は、「入唐求法巡礼行記」(にっとうぐほうじゅんれいこうき)に記されています。 慈覚大師は承和五年から同十四年(838〜847)まで唐に渡り、たくさんの仏法を学んで日本に伝えました。 その御入唐の時、大師はみずから刻んだ薬師様の小像を持参していました。そして、日本への帰りの海路にて波風が荒れたおり、御持仏を海神に献じて何を逃れました。無事帰国した後、肥前松浦にて海が光り、薬師様の像が蛸に乗って浮かんできました。 その後、天安二年(858)目黒の地に来たおり、松浦で見たままを霊木に刻み、持仏をその体内に納め蛸薬師如来としました。 ご本尊は蛸の上に乗っています。 また別名を「多幸薬師」として福を吸い寄せる蛸なのだそうです。(FROM 目黒区商店街公式ホームページ


【安養院】

臥龍山 安養院 能仁寺

開山は平安の初め、天台宗第三世慈覚大師によって開かれました。  中興開山は木喰唱岳長音上人(モクジキ ショウガク チョウオン ショウニン/1601〜1677)です。  長音上人は近世における木喰行者の頂点と言われる弾誓上人(タンセイショウニン/1551〜1613)の弟子で、二世弾阿上人と共に、諸国を回りながら作仏、彫像を多く残こした木喰僧として有名です。  また、佐渡や信州に弾誓寺を創建しました。晩年は秋田で地中深く据えられた棺の蓋を自ら閉じ、念仏を唱えながら捨身入定され、静かに極楽に参られたと言われます。  当山の御本尊様は、その長音上人の御作で金色八尺の涅槃像です。  山門は太平洋戦争の空襲で焼失をまぬがれた江戸時代の建造物ですが、そこには独湛筆の「安養院」の扁額を見る事が出来ます。  独湛 性瑩(ドクタン ショウケイ/1627〜1706)は高僧 隠元と共に1654年来日した明代の僧で、宇治の万福寺四世になりました。  また墓地には、大般若経の校正者として名高い、慈海宋順大僧正の石造観音像があり、彼との深いつながりを知ることが出来ます。 その当時、安養院は天台宗の寺院でありましたが、宗派を越えた修行僧達との交流があったことが偲ばれます。  境内を見れば、長音上人造立の巨大な念仏供養塔をはじめ、「廻国六十六部法華納経所塔」や「鉄砲塚供養塔」など、当時の参拝者の安養院に対する信仰の強さを思い伺う遺跡を多く見ることが出来ます。  安養院の石造文化財の多さには目を見張るものがあります。  その中で、特筆すべきものは、当山檀祖、称専院殿様の五輪塔でありましょう。  称専院(ショウセンイン)殿様は藝州浅野家(忠臣蔵の赤穂浅野家の本家)の太守長晟(ナガアキラ)公の室で、八代姫と仰せられる京の公家の御出身でした。太守亡き後、家康の知恵袋、天海大僧正の導きにより、当山で出家され、御修行を重ね、安祥として極楽往生されました。荼毘に際し、五色の舎利が現れたと言われています。まわりには、最後まで供をした侍女達が観音の姿となって守っています。お姫様と侍女達の来世までの深い結びつきを想う優美さのある墓所なのです。  この後、浅野家の庇護のもと、安養院は発展していきました。  寝釈迦の寺として、長寿とぽっくり信仰で賑わうようになったのも、この頃からと思われます。


【目黒不動尊】

目黒不動尊は、古くから浅草の浅草寺とならんで東京の庶民信仰の対象となっています。 不動前駅の近くには東京でも最も大きい斎場である桐ヶ谷斎場があります。親類の葬儀が桐ヶ谷斎場でありましたが、その帰りに故人の冥福を祈るため、目黒不動尊に参拝しました。参道の商店街を抜けると、まず左右一対の仁王像を持つ壮麗な仁王門が見えます。

仁王門から境内に入ると、その広さに驚きます。境内の右側に泰叡山瀧泉寺(りゅうせんじ)という天台宗のお寺があり、目黒不動尊のある境内全体を管理しています。寺の開祖慈覚大師(円仁)は伝教大師最澄の弟子で、不動明王の霊夢を得て自らその像を彫刻したのが目黒不動尊の縁起とされます。江戸時代には上野寛永寺の末寺となり、さらには三代将軍家光の帰依を受けて大変栄えました。

境内の不動堂に向かう石段の左側に、「独鈷の滝」があり、滝下が池になっています。 1200年前、寺の開祖慈覚大師が持っていたた独鈷(どっこ)を投げたところ、そこから滝泉が湧き出したのが名前の由来とされます。 この滝はそれ以後一度も涸れたことがないとのことで、池の中に「水かけ不動」が奉られ、それにひしゃくで水をかけるとさまざまなご利益があるとされます。 お不動様の信者でしょうか、水かけ不動にひしゃくで水をかけたあと、敬虔な祈りをささげるひとがいらっしゃいました。

本堂は戦災で焼失しましたが、昭和56年に再建されました。前記の開祖が刻んだといわれる不動尊像を安置しています。 仏教では大日如来が宇宙全体の象徴とされ、不動明王はその大日如来の化身と位置付けられています。火炎の光背を背負い、剣を持つ厳しい姿の不動明王ですが、凡人の身近にあって苦楽を共にする仏です。江戸時代には庶民の不動信仰が厚く、行楽を兼ねてお不動様もうでをする庶民で賑わったそうです。

本堂の裏に露座の大日如来坐像が祀られています。製作は江戸初期の1638年で、以降自分の化身である不動明王を前面に出して不動堂に納め、自分はその背後で静かに座していらっしゃいます。このような露座の大日如来像は大変珍しいそうです。不動明王信仰は弘法大師との関連が強く、そのため真言宗のお寺の中に不動堂が設けられている例が多いように思われます。 しかしこの目黒不動尊では天台宗のお寺が母体になっているのを知り、不動明王信仰の幅広さが改めてわかりました。

江戸の初期に、甘藷(サツマイモ)の栽培を広め、貧しい農民を救った甘藷先生で有名な青木昆陽。元禄11年(1698)、江戸日本橋の魚屋佃屋半右衛門の家に生まれた。町奉行大岡忠相の知遇を得て、幕府の書物方に取り立てられ、さらに書物奉行の要職にまで就きました。 晩年は目黒に移り、寂しい隠居暮らしを続け72歳で他界。彼が生前に、自ら 「甘藷先生の墓」と記した墓石を作らせ、それが目黒不動裏の墓地に残っています。毎年10月28日 昆陽を偲ぶ「甘藷祭り」が行われています。


【五百羅漢寺】

「目黒の羅漢さん」として、はとバスの観光コースにも なっている天恩山五百羅漢寺は、もともと本所五ツ目(江東区大島)の地に、松雲元慶禅師によって元禄8年(1695)に創建された寺である。

京都の仏師であった松雲元慶は諸国行脚で訪れた九州耶馬渓の羅漢寺で五百羅漢を見て感動、江戸に上り托鉢して集めた浄財をもとに五百羅漢像の制作にとりかかり、十数年の歳月をかけて536体の像を完成させた。

そのことを聞きつけた五代将軍綱吉とその母桂昌院は、本所に土地と建立費用を援助、さらに八代将軍吉宗からも援助を得て創建した寺は、江戸第一の名勝とまで言われた。その様子は北斎、広重の錦絵に描かれたほどである。

しかし、安政の大地震で被害を受け、寺は明治維新とともに没落し、二度の移転の末、明治42年(1909)に目黒に移ることになった。

震災の被害を受けた羅漢像は、野ざらしにされ、無残な状態に成り果てていたのだが、当時の総理大臣桂太郎の愛妾で新橋芸妓のお鯉(のちの安藤妙照尼)が住職を買って出て、五百羅漢の保存に努力した。

536体あった羅漢像は、このとき305体にまで減っていたが、妙照尼の努力のかいあって、多くの困難を乗り越えた羅漢像は、松雲元慶が造り出したときの豊かな表情を失うことはなかった。その後、羅漢像は一括して東京都重要文化財に指定されている。

五百羅漢寺は、昭和54年(1979)になって再建計画が立てられ、2年後の昭和56年に近代的なお堂が完成し、羅漢さんたちは風雨にさらされることのない快適な安住の地を得た。

同寺には、安藤妙照尼の墓であるお鯉観音や、高浜虚子や妙照尼と桂公の艶聞記事を書いた平山盧江の碑もあり、花柳界や水商売の参拝者も多いといわれれる。(東京の歴史名所を歩く地図


【大鳥神社】

「目黒のお酉(とり)さん」と呼ばれ親しまれている、目黒区内で最も古い神社である。年末の酉の市が有名だ。 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、国常立命(クニトコタチノミコト)弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)を合祀している。毎年 9 月 9 日に一番近い土・日に例大祭が行われ、その際に披露される太々神楽「剣の舞」は、江戸末期から伝わる荘厳な舞である。

神社縁起によると、大鳥神社は 806 年(大同元)に創建された。現在の社殿は 1962 年(昭和 37)に完成したものである。

日本武尊の父、景行天皇の時代、ここには国常立命を祭った社があった。日本武尊は東征の途中、この社に立ち寄り、東夷(あずまえびす))の平定と部下の眼病平癒を祈願したところ、霊験がたちどころに現れた。そこで感謝して、手近に持っていた十握剣(とつかのつるぎ)を社に奉納したという言い伝えが残っている。 日本武尊の死後、その遺体を埋葬したところ、尊の御霊(みたま)が白鳥となって倭国を指して飛び立った。いわゆる「白鳥伝説」である。ここから「大鳥神社」という名前が付いたと考えられている。

夕方だというのに、参拝者の列は境内から溢れて外まで続いている。寒くなってきたので、遠くから手を合わせて「お願い」。効き目がないかも? 隣にはどこかで見た人もいたが誰だったっけ???



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